新甲府城物語

 私が山梨県人会連合会発行の機関誌「富士の国」に平成13年5月から8月にかけて寄稿したものです。

 新甲府城物語その1   平成13年5月号掲載

 最近、甲府城をお訪ねになったことはおありだろうか。
 「ライトアップされた石垣、白い土壁が幻想的だ」と、市民を魅了している。
 甲府城の整備事業は、現在、あのお穴太づ積みと呼ばれる伝統工法による石垣の修復、および九千平米がほぼ完成し、 石垣の上には美しい白壁がめぐらされている。
内松陰門・稲荷門・鍛冶曲門の三つの城門も完成した。
鉄製の遊亀橋も、 景観にふさわしく木造風に架け替えられた。
 城内にあった旧科学センターは愛宕山に移設され、併せて、周辺整備も行なわれた。
県民会館大ホールは解体され、 跡地は駐車場として整備された。
スクランブル交差点からの景観を妨げていた歩道橋も撤去された。
隣接するやまな み信用組合ビルも買収契約を終え、三月中には県に引き渡される運びだ。
 甲府城東側の石垣沿いの店舗・住居二十四軒も既に移転を完了し、跡地は大型観光バスの駐車場として整備された。
甲府城遊亀橋から岡島デパート北入口までを直線で結ぶ「城下町通り」の完成も間近い。
 こうした甲府城の整備は話題を呼び、映画やテレビの撮影地としてにわかに脚光を集め出した。
映画「梟の城」 やテレビドラマ「宮本武蔵」に映し出された甲府城は実に荘厳であり、大いに甲府市民を喜ばし、また誇りをも持たせた。 郷土史と言えば武田信玄の登場する戦国時代にしか感心を寄せなかった人々が、江戸期に思いを馳せるようにもなった。
 甲府城の整備は、昭和六十二年、県土木部が「舞鶴公園整備検討委員会」を設置したことに始まった。平成二年、 実施計画は承認され、事業はスタートした。この事業は、私のかねてからの宿願であり、甲府城を核としたまちづくりは、 政治課題のひとつでもあった。おかげで新聞などは私を「歩く天守閣」とのニックネームをつけて書き立て、また、多く の市民の関心と期待を集めることとなった。
 最も大きな推進課題は、観光による県都甲府の活性化である。山梨県は通過観光県であるのにもかかわらず、観光客は 年間三千四百万人、二千八百億円を落としている。「ミレー美術館」や「自然景観」と併せ「甲府城」を新たな観光資源 として加えることで、宿泊型観光地への脱皮と、大きな経済効果を期待したい。
 私はいま、新時代の山梨を展望しつつ、甲府城の「天守閣」再建を提唱している。

 新甲府城物語その2   平成13年6月号掲載

 山梨県民のなかには、甲府城を「武田信玄の城」だと思い込んでいる人が以外にも多い。
 甲府城は、一体誰が、どのような目的によって築いたのか。甲府城はまず、武田家滅亡後、 徳川家の支配下で計画されたが、勢力拡大を恐れた豊臣秀吉は家康を関東に移封、秀吉の甥、 羽柴秀勝によって着手された。天正十八年(一五九○)のことである。
 これより加藤光泰に引き継がれ、やがては、豊臣家五奉行の一人浅野長政・幸長親子によ って天守閣まで完成された。
 甲府城は、豊臣秀吉による徳川家康の権勢拡大阻止策の一つであり、以後甲府城は、 小諸城・上田城・松本城・高島城・飯田城等と連携した関東(徳川)を包囲するもっとも重要な 要塞となった。ところが、天下分け目の関が原の戦いで豊臣家は敗退、浅野親子は徳川側につい た戦功で紀州に転封、甲斐は再び徳川領となった。
 今日の甲府城論争に「天守閣はあったのか、なかったのか、」という問題がある。昭和六十年 代までは、甲府城には天守閣はなかったというのが定説だった。これは、江戸時代の儒学者・荻 生徂徠の紀行文に「昔からなかった」と記されていることを根拠としている。もっとも、浅野親 子が家康への忠義の証として天守閣を撤去したとも、徳川領となったおり、平岩ちか親よし吉が 豊臣の権力の象徴である天守閣を取り壊し地中に埋めた、と語られてもきた。
 しかし、近年の発掘調査により、城内から金箔瓦をはじめ、大型の鯱瓦が続々と発見されるに いたった。いやがおうでも、天守閣論争は過熱することとなった。明治大学の大塚初重名誉教授 や、金箔瓦研究の第一人者である中村博司大阪城副館長は、甲府城は豊臣の城であったこと、 天守閣は存在したことを明言し、通説を覆した。
 発掘された鯱瓦は、大型でおよそ一、五メートルあった。この鯱瓦をもとに、天守閣の規模を 推測することが出来る。これによると、天守閣の高さは、およそ四○メートルであり、さらには、 大阪城並みの五層の天守閣であった可能性も出てきた。
 県民の驚きと興奮はいうまでもない。戦国から江戸時代への歴史の流れに関心も生れ、ふるさ と意識と夢は大きく膨らんできた。



 新甲府城物語その3   平成13年7月号掲載

 甲府駅のホームに降り立つと、甲府城の北東に、ライトアップされた威風堂々たるいなり稲荷 やぐら櫓に目が奪われる。
その日が、二年先に確実にやってくる。百三十年を経てよみがえる ふるさとの象徴、甲府城である。
 県が、いなり稲荷やぐら櫓の在来工法による復元を決定した。予定より二年半も遅れてしまっ たのは、稲荷櫓建設をめぐり、「杭打ち工法」を主張する土木部と「在来工法」による復元を主 張する県教育委員会との対立があったことは否めない。また、甲府城の古い写真が発見されたこと、 さらには稲荷櫓の「礎石紛失問題」が表面化したことによる。
 これらの問題は「都市公園整備」を基本とする土木部と、「文化財の復元」を目指す県教育委 員会との認識の違いから生じたものである。
 天守閣の建設にあたっては賛否両論がある。
これを理解するためには、そもそも「天守閣とは 何か」「全国の天守閣建設はどのように行なわれているか」を整理しておく必要がある。
 現在、全国には天守閣をもつ城が九十六ある。そのうち、いわゆるホンモノの天守閣は十四城 しか現存しない。犬山城、姫路城が典型である。次に絵図面に基づいて再建された「復興天守」 は二十二城あり、大阪城、名古屋城などがこれにあたり、鉄筋コンクリート造りでエレベーター まで付いているものが多い。
 くわえて天守台やしゃちがわら鯱瓦など、残存している物的証拠に基づき、さらに在来工法に よって復元した「復元天守」が掛川城をはじめ十二城ある。文化的、歴史的価値の極めて高い城 であるといっていい。これらに属さない天守閣は全国に四十八あり、熱海城、三珠城がこれにあ たり「模擬天守」とよばれて、ほぼ半数を占める。
 さて、わが甲府城の再建は誇りある「復元天守」となる。「甲府城に天守閣を」という提唱と 実現への熱意は、ここにある。甲府城に天守閣が復元されれば、全国で十三番目の栄えある「復 元天守」となる。
 さらに、この十年全国で城の修復が盛んに行なわれ、文化財復元手法での整備が三十八城ある こと、また甲府城と同様、やぐら櫓の修復も十六城あることも明らかにしておきたい。

 新甲府城物語その4   平成13年8月号掲載

 甲府城の整備は、県民に歴史への関心を呼び起こし「ふるさと愛」に目覚めさせている。
この郷土への思いこそは、地域活性化へのエネルギーである。また、歴史への興味は、素 朴な疑問や、思いがけない発見をもたらし、話題は尽きない。
 そのひとつに、武田信玄は甲陽軍艦の「人は石垣、人は城」の言葉どおり、ほんとうに 城を作ることはなかったのか、というのがある。また、「甲府城」は整備に着手しても、何 故「つつじがア館」は復元・整備しないのか、という声もある。もっともなことである。
 史実からいうと、信玄は「甲州流築城法」という独自の技術を持ち、信濃の大島城、牧 之島城、駿河の田中城、小長井城など、多くの城を築いている。まさに、軍事力に優れた 名将だった。したがって、甲斐国の城「つつじがア館」は、当時の要塞としては最大級の 建造物であったと想像できる。
 しかし、残念ながら「つつじがア館」は、すでに国指定文化財である。文化庁の指導は 極めて厳しく、当時の絵図面など、確かな資料が存在しなければ復元は難しい。その点、 県指定文化財の甲府城は、発掘調査によって数多くの物的証拠資料が発見され、復元への 道が開かれることになった。
 とかく山梨県人の郷土歴史観は、武田氏滅亡と同時にそこで停止し、いきなり昭和の時 代まで飛んでしまうから不思議だ。武田氏滅亡後、四〇〇年の空白を埋めたいし、子供た ちにも正しい歴史を甲府城の存在とともに伝えたい。
 甲府城の整備は、いくつもの「歴史的ニュース」を提供してくれている。たとえば発掘 により「違い鷹の羽」の家紋が発見された。これは浅野家の家紋であり、松の廊下でお馴 染みの「忠臣蔵」の祖先とゆかりをもつ。あれやこれやと県民は話題にし、歴史の面白さ に魅かれていく。
 さて、私は「二十一世紀の城下町」を創出すべく、第二次甲府城整備計画を県知事に強 く要望している。「銅(あかがね)門」や「鉄(くろがね)門」さらには天守閣を再建し、 特色ある甲府城の、歴史的価値を明確にしたいからである。さらに、歴史遺産を本格的「 観光立県」構築の目玉として経済の面でも活力とし、山梨新時代の大いなる価値に高めた いからである。ぜひ、整備が進んだ甲府城に一度お越し願いたいものである。