明治に廃城されてから100年ほどが経過し、石垣の疲労が進んだことから、内城部分では、石垣の所々で、石材の劣化やはらみなどが認められるようになってきました。
このことは全国の城跡で同様な傾向が見られています。
そこで甲府城跡では、史跡公園として、整備することが検討され、平成2年(1990年)からは、石垣の解体修理や堀の改修工事などの整備事業が実施されています。
それと平行して、進められている発掘調査により、甲府城について、新しい事実が発見され、これまで謎とされていた部分が解明されてきております。





 甲府城跡の石垣の多くは築城期、すなわち慶長5年までに「穴太積み」の技法で積み上げられたことがわかってきました。
この石垣は同じ頃に普請が行われた秀吉の大阪城の石垣(野面積みの技法)とよく似ているといわれています。このような石垣を城郭づくりに取り込んだ本格的な第1号は織田信長の安土城だといわれています。 それが秀吉にも受け継がれ、その流れのなかで甲府城の石垣が誕生しました。
 石垣修理はただ石を外して、漠然と元あったように積み直すことではなく、そこからいろいろな情報を引き出しながら、できるだけ本来の姿が生きるように、そして修理後もそれ以前よりずっと長くその姿を保つことができるように考えています。
甲府城跡では、先人の技術と現代人の技術との力比べのような仕事が発掘調査と肩を並べて進められています。

穴太積みによる
本丸南面の石垣



 築城期のようすを物語る出土品として、金箔瓦が出土しました。
小さな破片が接合されるにおよんで、鯱瓦、人形の付いた鬼瓦、桐紋のある飾り瓦であることがわかってきました。
その作風は桃山風なもので、桐紋などは秀吉によって使用が制限されていたことなどから、甲府城の築城が豊臣氏と深い関係にあったことが認められます。
さらに浅野氏の家紋の「違い鷹の羽」紋のある軒丸瓦が出土しています。またこれらの金箔瓦を乗せた建物はどのような建物なのか、鯱瓦があれば櫓建物などが考えられます。あるいは天守閣でしょうか。
 今後、発掘が進められていく中で、新たな事実が姿を現してくることと思います。

金箔赤彩
人形付鬼瓦
違い鷹の
羽紋軒丸瓦
金箔鯱瓦 復元金箔鯱瓦