甲府城の歴史


 甲府城は武田家滅亡の後、徳川家の支配下で築城を計画されたが徳川家康が関東に移封され、 400年前に豊臣秀吉の甥の羽柴秀勝が築城に着手し加藤光泰が引き継ぎ、その後豊臣家の五奉行の一人浅野長 政・幸長親子が城主となり天守閣を完成させた、その規模は松本城に比べ1.5倍の天守台や鯱瓦の大きさか ら大坂城に並ぶ大きさと推定される。

 その後天下分け目の関が原で徳川家康が勝ち浅野親子は徳川方につき戦功により紀州に移った。
甲斐の国は再び徳川領となり甲府城は平岩ちかよし親吉の手で豊臣の権力の象徴である天守閣は 壊され埋められたか、または浅野親子が徳川への忠誠を誓い、自ら撤去し埋めたといわれている。

 現在出土している金箔の鯱瓦や飾り瓦はその頃の物であり、これが証拠となって永い間存在し ないと言われた甲府城の天守閣も、県立考古博物館長で明治大学名誉教授の大塚初重先生の 「存在説」が有力となり、今や通説となっている。



 甲府城の主な歴史の流れ


1582年(天正10年)武田氏滅亡 徳川氏の支配下 徳川は関東に移封
 
          
1590年(天正18年)豊臣秀吉の甥の羽柴秀勝が築城に着手

          

1591年(天正19年)加藤光泰が引き継ぐ

          

1594年(文禄3年)豊臣の五奉行の一人浅野長政・幸長親子が城主となる

      天守閣完成

1600年(慶長5年)<天下分け目の関が原の戦い>

          

浅野親子は徳川方(東軍)につき戦功により紀州へ

          

1601年(慶長6年)再び甲斐の国は徳川領になる  平岩親吉が城代

          

          徳川忠長・綱重

※将軍家一門に継承される 綱豊(綱重嫡男)

五代将軍綱吉の養子(後の六代将軍)家宣

          

1724年(享保8年)柳沢吉保  吉里(親子)大和郡山へ移封される

          

         徳川幕府の直轄支配

          

1868年(慶応4年)大政奉還 板垣退助・無血入城

          

明治維新  1874年(明治6年)廃城令