甲府城に関する史料 1


甲府城の史的位置 −甲斐国織豊期研究序説− (抜 粋)
                  著者 平 山   優


 一 はじめに

 本稿は、甲府城を素材として豊臣政権期の甲斐国の政治・軍事的位置の究明を目的としたも のである。
 豊臣政権にとって、甲斐の国とはいったいいかなる評価が与えられ、それに応じた地位を占 めたのか、そして、豊臣政権下での評価や政策がその後の徳川政権における甲斐国のそれに、 どのように影響をもたらしたのか問われねばならない。天下統一を目前に控えた情勢の中で、 甲斐は武田氏が領有していた頃とその政治的、戦略約位置づけが大きく様相を異にした筈であ り、その特徴の究明が必要である
 甲府城を素材にし、その築城経緯や歴代城主の分析を軸に据えたのは、甲府城が、徳川家康 によって築城され豊臣政権領有期を除きほぼ一貫して徳川体制にとって対西側(豊臣)の戦略 拠点であり、豊臣氏滅亡後も西側への備えとしての重要性を保ち続けたという「定説」を持ち ながら、実は後に見るように正確な築城年代すら判然とせず、また、この「定説」のもとでは、 徳川体制の後景に隠され、豊臣政権期の甲斐国と甲府城の位置づけが全く捨象され、不明確の まま放置されていることによる。
 それは「天下人」家康によって確立された認識が、直接投影された形で作り上げられたもの と言えよう。その中では、必然的に豊臣期の実態は、その陰に隠蔽されてしまう。しかし、後 に見るように、甲府城の家康築城説そのものに重大な疑義がある以上、従来家康を軸に組み上 げられてきた甲府城と甲斐国の位置づけは、根本的な再検討を迫られることになる。

 
 二 甲府築域の経緯とその問題点

 甲府城の築城年代とその目的については、次に掲げる二点が今日定説となっている。

(一) 甲府城は武田氏滅亡後、徳川家康によって天正十一年に建設が着手された。 しかし、工事は途中で中断し、それは豊臣大名の羽柴、加藤、浅野氏に引き継が れた。
(二) 家康の築城の目的は、手狭になった躑躅ヶ崎館(武田氏館)に代わる、甲斐一国 領有の拠点の確保であり 同時に西国(豊臣秀吉)に備えるための拠点として重要 視された。特に関ヶ原の合戦後、家康による幕府体制が成立すると、甲府城はまだ 健在であった豊臣氏や西国大名への備え、即ち江戸城防衛の最前線として位置づけ られた。
 以上が、従来提唱されてきた、甲府城とその経緯に関する「定説」である。しかし、それを 仔細に検討すると、様々な問題点に逢着する。まず、甲府築城の年代については、この他に天 正十三年とするものもあり、実は築城年代が一定していないという事実に突き当たるのである。 そこで、築城をめぐる天正十一年説の根拠から、洗い直す必要性がある。まず、天正十一年 説であるが、それは『甲府城総合調査報告書』(一九六九 以下『総合調査報告書』)を初見 とし、以後甲府城関係の記述に継承されている。これに対し、天正十三年説はこれより早く、 既に『甲斐国誌』の中にも登場し『総合調査報告書』以前の著作、論文には、天正十三年築城 とするものが多い。
また、これらの根拠となった資料はいずれも信用性に乏しく、いずれも否定できるものであ る。そこで、甲府城関係の古文書を洗い直すとすべて豊臣大名によって築城されたことが明ら かであり、それは天正18年以後のことである。
甲府城は徳川家康よりも、豊臣大名による築城であると推定されるが、では家康は果たして 甲府築城に全く関与しなかったのであろうか。実は、今回私は、年不詳正月二十七日付の平岩 親吉宛徳川家康書状を発見した。それは甲府城築城のための指示を書いたものであるが、内容 から天正十七年と推定され、それは小田原出兵前夜ということになる。つまり家康は、秀吉から甲 府築城を認可されながら小田原出兵のために中止やむなきに至り、その後すぐに関東転封にな ったと考えられる。

(一) 天正十年武田滅亡後、甲斐の拠点としては武田氏館が依然使用された。この形態 は、甲府城完成まで変わることはなかった。

(二) 本能寺の変による政変で、甲斐における織田政権(川尻秀隆)は崩壊し、甲斐は 徳川家康と北条氏直の争奪の場となり、最終的に徳川が領有するが、この時期に甲 府築城が始まったという事実は認められない。

(三) この後家康は、小牧・長久手合戦を契機に、天正十四年に豊臣政権に臣従した。 甲府城は、豊臣政権の全国統一事業のもと専ら対北条(東国)への備えとして、 天正十七年に建設が計画・着手された。家康はこの頃、領国支配の強化と経済基盤 の安定を計るために、「熊蔵縄」(五カ国惣検地)を実施しており、築城のための 基礎も備わり、豊臣政権下のもとで、西国系の穴太積(「石垣積」)の技術を利用 することも可能になっていた。またこの時期は、折しも豊臣政権と北条氏との対立 が激化しつつある情勢下のことであり、家康は甲府防衛のために、浄古寺城の修築 を行なった。<

(四) しかし計画は家康や平岩親吉の小田原出兵によって中止され、小田原落城後は 家康の関東転封のため頓挫した。従って現状の甲府城には徳川家康による関与は 全くなかったとみてよい。

(五) 甲府築城は、続く羽柴秀勝によって着工されたらしく、甲斐の職人層に動員が 出されているが、秀勝はまもなく転封となり、本格的な工事着工には至らなかった ようである。工事が本格化したのは次の加藤光泰の時で、加藤在任中に天主台・本 丸や東の丸(稲荷曲輪)などの中心部分の石垣普請が完成した。続く浅野長政の時 に城の建設予定地内にあたる寺社や村の移転をすべて完了させ、外郭までほぼ完成 を見たと思われる。

(六) 以上のように、甲府城は従来言われてきたように、徳川家康による築城ではなく、 その縄張りや石垣普請の技術などすべての事業は、豊臣大名によって一貫してなさ れたものと思われる。つまり、甲府城は純粋な豊臣系城郭であったと考えられるの であり、しかもそれは城主の変遷を見ても明らかなように、豊臣秀吉に最も近い 豊臣大名によってなされた、東国では他に類例を見ない稀有の城郭であるといい 得る。

(七) なお武田氏館に築かれた穴太積の天主台の建造時期については、断定できる根拠 がないが、同じ穴太積でも使用されている石材の規模が、甲府城のそれと比べて小 さいことや、技術的に甲府城以前のものと考えられていることから、豊臣政権従属 後の徳川期〜加藤光泰期までの時期と思料される。

 三 甲府城と豊臣政権

前章では、甲府城と従来言われているような徳川家康による早期の築城説は成立せず、その 築城技術は豊臣大名の手による西国糸の導入によってなされたものであることを確認し、その 築城時期を天正十七年以降とした。

ではこのような惣石垣普請の甲府城を甲斐に築城した豊臣政権の狙いとは何であったかが課 題になってくる。

 甲府城は一九九〇年度から発掘調査が行なわれており、それにともなう出土遺物は数多いが、 なかでも金箔瓦は注目すべきものである。以下、これらの遺物の分析を通じて甲府城の地位の 変化を追及してみよう。
 甲府城の天主台を中心とした本丸・人質曲輪などには、江戸期の瓦層の下に金箔瓦が集中的 に埋没する「金箔瓦層」が存在している。これは、この金箔瓦がある時期に、その役割を失い、 一挙に廃棄されたことによるものと推察される。そのなかから発見されたものとしては、金箔 を施した軒平瓦・軒丸瓦・風神をかたどった鬼瓦・鯱・板瓦などである。なかでも注目される のは、板瓦であり、それには豊臣政権の象徴である五三の桐紋がかたどられていることである。 豊臣秀吉は、天正十九年に菊と桐紋を勝手に使用することを禁止し、以後の使用は秀吉の認可 を必要とした。

 つまり、菊、桐紋は「御赦免」=豊臣政権の許可によって初めて使用が認められ、それを染 め抜いた「御服」の「拝領」についても、その染め替えに際しては菊、桐紋の使用を禁止させ るほど厳しい使用規制がしかれていた。こうしたところに、天正十九年令が貫徹していること が窺われる。つまり、菊、桐紋の使用やそれをつけた「御服」の「拝領」の着用こそ、諸大名 と天皇−関白との政治的関係を示すものにほかならない。
 それまで、戦国大名が独自に天皇や将軍に接近し、官位叙任及び菊、桐紋などの使用を認め られていたのに対して、豊臣政権は「御赦免」=官位叙任及び菊、桐紋認可を独占することに より、豊臣政権内部の諸大名の家格や親疎の区別を統制し、また天皇と諸大名との独自の接触 を遮断しようとしたのである。このように見てくると、菊、桐紋とは豊臣政権内部における政 治的地位の高さを示すシンボリックな指標といえよう。
 このように見てくると豊臣政権における厳しい規制がなされていた桐紋が甲府城出土の軒丸 瓦や飾瓦に見られるのは、注目されるところである。しかも現在出土しているが桐紋を施した 瓦には、金箔が押されており、豊臣政権における甲府城の地位の高さを示すものにほかならな い。
 そこで問題になるのは、この金箔瓦(特に桐紋を持つ)が一体いつ頃甲府城の建築物に使 用されていたかということであるが、残念ながらその年代を確定することは出来ない。しかし 歴代の城主が、秀吉の一族側近クラスであることを勘案すれは、羽柴秀勝ないし加藤光泰の頃 からその使用が始まったのではないかと思われる。

 このような金箔瓦を使用する事例は近年の発掘調査などで、報告数が増えており、興味深い 傾向が認められる。甲府城を取り巻く中部地方に限って見てみると、小田原出兵に際して築城 された石垣山一夜城には金箔瓦の使用は認められておらず、豊臣政権の東国における金箔瓦の 使用は天正十八年以後に始まると見てよいであろう。これは甲府城築城の本格的開始の時期と一 致する。ところで、家康の関東転封後、甲斐、信濃、駿河、美濃にはそれぞれ豊臣大名が配置 されていくが、それを見ると彼らが配置されたなかでも、松本城、上田城、小諸城、甲府城、 駿府城、岐阜城から金箔瓦が確認されており、それは家康の領国である関東に沿って展開する 城に見られる傾向にある。つまり、金箔瓦は豊臣政権の象徴であるとともに、それは徳川家康 に備える重要拠点に、秀吉系の大名配置に伴って施されたものと考えることが出来るのではな いだろうか。特定の城に対する金箔瓦の配置は、他ならぬ家康への豊臣政権の権力の誇示を意 味したのではないか。

 このように、豊臣政権は天下統一後、関東にいる家康封じ込めの最前線として、甲斐の政治、 戦略的地位の重要性を認め、その拠点である甲府城には秀吉の一族、重臣クラスの城主を送り 込んで一国の経営に当たらせた。さて、では豊臣大名の甲斐支配には、その重要性を裏付ける ような何らかの特徴が認められるであろうか。

(一)加藤光泰が甲府城を拠点に甲斐支配を行っていたが、その政策の原則の中に、隣国の徳 川家康の監視と牽制が含まれていた。特に、関東への物資流通には厳しい監視がなされていた。

(二)光泰死後は、一族の浅野長政を入れ、家康を取り巻く東国大名を統括する役目(取次役) として、一朝事ある時には、長政の指揮下に諸大名が入ることになった。 このように、歴代の甲府城主はいずれもその政策の基調を、対東国=徳川家康に置いており、 その動向を逐一監視、牽制することを重要な任務としていたのであろう。加藤光泰がその遺言 状において述べていた「甲斐国は要之地、其上御国端」というくだりには、このような豊臣政 権における甲斐の政治的 戦略的重要性の認識が込められていたと見ることができる。そうで あるが故に、秀吉は東国大名の「取次」「御指南」役の浅野長政に、甲斐国を給付し、光泰に 替わって甲府城に入れたのであろう。甲斐は家康の本拠地江戸を直接窺う要地であるがゆえに、 東国を統轄する前線地とみなされ、そのため浅野長政は、甲府城主と同時に東国大名の「取次」 「御指南」役に任命されたのであろう。

 このように甲府城とは、戦国末期〜織田、豊臣期において、甲斐国のその立地に基づく政権、 戦略的重要性から、常に対東国の拠点と位置づけられ、その城主もその重要性を反映して豊臣 政権の中でも最も秀吉に近い大名が配置され それに相応しい石垣普請と金箔瓦 桐紋瓦など で彩られたのであった。

 四 おわりに

 以上のように、甲府城は従来云われてきたように、対西国(豊臣政権)の拠点として徳川家 康によって築城され 慶長五年以後も江戸城防衛の拠点と位置づけられたというものでは決し てなく、その築城目的は常に対東国の拠点ということで少なくとも慶長五年(一六〇〇)まで 一貫していたことであった。家康は、関ヶ原合戦の後に豊臣政権に代わって独自に大幅な大名 の知行替を行なうが、その中で甲斐国は真っ先に家康によって接収され、平岩親吉が再び入国 するのである。平岩は甲府城に入城するとまもなく「修築」を実施したという。甲府城の完成 時期も不明であるが、従来はこの平岩の再入城によって完成したとされている。しかし、何れ にせよ、平岩親吉が甲府城に手を入れたことは明らかで、豊臣政権の象徴である金箔瓦、桐紋 瓦や「違い鷹の羽」の家紋瓦が「金箔瓦層」の存在によって判然とするように、一括して撤去 されたのは、この時であったと考えられる。つまりそれが豊臣政権のシンボルであったが故に、 家康の再領国化に伴って、一斉に廃棄処分にされたことを示している。それは徳川氏による豊 臣色の排除を象徴していた。これ以後、甲斐国と甲府城は徳川氏の重要な拠点とされ、江戸慕 府成立後は徳川一族が入城し、その後柳沢氏の入城があるが、一貫して幕府の直轄管理のもと にあった。そしてそれは、対西国の拠点へと変わっていったのである。
 これは即ち、甲斐と甲府城が対東国の拠点であったが故に、東国に拠点を置く徳川幕府にと っては、逆に対西国の拠点とみなされたことを示している。
 この歴史のパラドックスが、やがて天正初期家康築城説と結びついて、「定説」化していっ たのであろう。

(注)この論文は、「山梨県立考古博物館・山梨県埋蔵文化財センター 研究紀要9 1993年」に掲載されたものです。



甲府城に関する史料 2

甲斐国 歴史の実像を追う
 甲府城 豊臣が徳川封じで構築 家康築城説疑問
                著者 萩 原 三 雄
                  (帝京大学山梨文化財研究所研究部長)

 天正一〇年(一五八二年)、清和天皇以来の名門、甲斐武田氏は滅亡する。その年の三月、甲斐に入団して統治をはじめかけた織田信長は六月、本能寺に倒れ、以後、甲斐一団は徳川家康の支配を受けることになつた。

甲府城はこの家康によつて築城されたと、長い間考えられてきた。この辺のいきさつを、諸書をひもときながらながめてみよう。山川出版社『山梨県の歴史』には、次のように書かれている。
武田滅亡後、徳川家康はしばしば甲斐に入国して経営にあたったが、郡代に命ぜられた平岩親吉は、甲斐国支配のための新地の建設を、家康の裁断によつて一条小山の地と定めた。そして天正一八年の家康の関東転封後、新たに甲斐に入国する豊臣秀吉の重臣、加藤光泰・浅野長政らによって受け継がれ、完成をみたというのである。
また、河出書房新社『図説山梨県の歴史』には、以下のょうに記述されている。
甲斐を領有した家康は、平岩親吉を甲府城代に任じて領内の統治に当たらせた。かつて武田信虎に始まった甲斐の府中である甲府は、家康が築城に着手することによつて、近世甲斐支配の拠点として定まったのである。新城の建設は、家康の裁断により一条小山の地と決定した。

また以前私も、次のように考えたことがあった(『日本城郭大系』)。
桜井安芸守ら四奉行が石和八幡宮の神主に宛てた文書に「当社八幡において、御番をあい勉むる社人衆、五月二日より同一一日まで一〇日脚やといに候、府中において御城普請致さるべきの旨あい触れらるべき者也、卯月二五日」とあって、築城の地鎮祭のために番社人衆の出仕を命じたことや「愛宕山旧宝蔵院所蔵文書」に、愛宕山に勝軍地蔵を勧請して本城の鬼門鎮守としたことが記されることから、版築の工事は徳川家康の命を受けた平岩親吉によって天正11年に始められたーーーー。

甲斐滅亡後の翌一一年、徳川家康によって甲府城の築造は開始された。そしてその後、豊臣系の諸大名によって引き継かれ完成をみたーー。これは、甲府城築造についての現在における動かしがたい定説である。

 躑躅ケ崎館を修築

 だが近年、この説はどうもおかしいと思われるようになってきた。第一に徳川氏や豊臣系諸大名は入国後、戦国期に武田氏の本拠であった躑躅ケ崎館の修築をおこない、天守台まで造っており、しばらくここを支配の拠占としていたこと、家康は東国ではこの時期 高石垣の城は築城していないことなどがわかってきたからである。しかも「甲府城の史的位置」という論考を最近発表した平山優氏は先にあげた年号のない徳川四奉行の連署状について「天正一一年とする根拠に乏しい」とし この時期、徳川家康は武田戚亡以後の統冶に意を尽くしており 甲府築城の動員をかけることは難しいし、現に動員をかけられた形跡がないとし、天正一一年に比定することに強い疑問を提示した。このように見ていくと、今まて通説をささえてきた徳川家康による天正一一年築造説は全く根拠を失うことになる。それでは、いつ誰が築城したのかーーー。甲府披に関し、家康の文書はもう一通ある。
徳川家康書状
一條山地形之儀、其国之諸侍相触、普請可申付候、
石垣積近日可差遣候之間、油断有間敷候、恐々謹言
正月二七日    家康(花押)
平岩七之助殿
 この中の「一條山」はおそらく甲府城をさすのだろう。そうするとこの時点では 家康は甲府城の築造の意志を明らかにもっていた。では先の文書とあわせ、それはいったいいつのことだったのか。
 平山優氏は さまざまな理由をあげて、この時期を大正一七年(一五八九年)頃の家康の関東転封直前とした。すなわち「家康は天正一七年に甲府築城の整備に入ったものの小田原出兵と続く関東転封のために中断のやむなきに至った」と指摘したのである。家康は、築城の意志はもっていた。しかし 秀吉による関東転封によつてそれをなし得なかった。そして、あとに続く豊臣系諸大名によって甲府城は築造されていく。ここには、徳川家康と豊臣秀吉との権力をめぐるすさまじい葛藤を背景にした、甲府城の秘めるさまざまな歴史とドラマが見えてくるのである。

 発掘調査で新事実

 一九九〇年から開始された甲府城の発掘調査は、私たちに多くの新しい事実をもたらした。 その第一は、従来比較的なだらかと思われてきた一条小山の地が、実際は山あり、谷ありで起伏に富み、予想以上に大規模な造成工事によつて築城の基礎固めがおこなわれていたこと、天主台は石積みと盛り土によつて構築され自然地形を利用したものではないこと、天主台直下の人質曲輪から大量の金箔瓦が発見されたことなど、甲府城の歴史を解明するうえでの重要な成果がいくつも得られている。 そのなかで特に関係者を驚かせたことは、桃山期の作風と推定される顔に朱と金箔が施された風神または雷神らしき鬼瓦、魔除けのための獅子をかたどった瓦、さらには豊臣家の家紋である五三の桐を付した鬼板瓦や、浅野家の家紋である違い鷹の羽の軒丸瓦など、甲府城の初期建造物の華麗な姿を彷彿させるものが続々と見つかったことである。 そして、これらの建造物の横築者は紛れもなく、豊臣系の諸大名であったことである。金箔瓦は、織田信長か豊臣秀吉の専売特許であった。 徳川家康は、造っていない。 しかも戦略上、きわめて重要で、秀吉の親族か譜代の重臣クラスの守った城郭しか、使用を許可されていない。 甲府城から出土した金箔瓦から、この城が秀吉にとってきわめて重要であったことを知ることができたのである。

 これらの金箔瓦は、しかも最も下層の地点から出土している。甲府城の築造当初の建物の屋根を飾っていたのは、この金箔瓦であったのである。この事実はすなわち、甲府城が当初、豊臣秀吉によって築械されたことを端的に物語っている。甲府城は、徳川家康によつて、江戸城防衛のために、対豊臣政策の一環として築かれた、というのが今までの通説であった。しかし、前述の新事実によつて、一八〇度の転換をせまられたのである。甲府城は、豊臣秀吉によつて、対徳川戦略のために築造された、とーーー。

 ここにおいて、甲府城の築城の経緯と歴史的性格が、全く逆転してしまったのである。
 しかし、このようにみていくと、甲府城にまつわるさまざまな点が整合性を帯びてくる。穴太(あのう)積みという西国大名の得意であった石垣積みの技術が本格的に導入されたことなどは、ごく当然のことになる。
 ところで、甲府城から出土する金箔瓦は、江戸期の瓦層の下から一括して廃棄されたような状態でみつかっている。倒壊した後にかたづけられたのか、意識的に排除したのかは定かではないが、いずれにしても、その後金箔瓦を用いた建物が再建されたという形跡は見当たらない。
 豊臣政権崩壊後、甲斐国は再び徳川家康の領有することになるが、そのかなり早い時期に、豊臣色の払拭のために、甲府城の大修築がなされた可能性はきわめて大きくなった。甲府城にはまた、きわめて重要な問題が未解決のまま残されている。天主台の上に、天主閣が存在していたかどうかである。周到に準備された天主台の上に本当に天主は建造されなかったのか、あるいは全国各地の豊臣系城郭のょうに、屹立(きつりつ) としてそぴえたっていたのか。
 いまここで、はっきりとした結論を示す確かな資料はない。しかし、明確になってきたことは、天主が存在しなかったという根拠は既に消え去ってしまったということである。そして、甲府城の天主の存否は、豊臣政権の全国的あり方とも深く連動しており、再度根本に立ち返って考え直さなくてはならなくなってきたということである。
 江戸幕府二百六十年の基礎を作り上げた家康は、時代の推移とともに、神格化され、歴史上のさまざまな出来事が家康の為政に結びついていく。甲府城に限らず、静岡の浜松城なども同様な現象を呈し、豊臣色が消されている。歴史の実像を追うためには、こうしたフィルターを取り除き、その奥に深く隠された事実を丹念に採ることからはじめなければならないのである。

 再整備に高い関心

 江戸時代に、甲斐国の統治の象徽として存在していたこの甲府城の再整備事業がいま、急ピッチで進められている。県土木部と教育委員会が主体となって一〇年という長期計画で進めている大型プロジェクトで、県当局の熱意と意気込みが感じられる。 しかし史跡の復元という事業には、常に多くの困難がつきまとうのも事実である。数百年の風雪を耐えぬいてきた甲府城の歴史的価値をいささかも失わず、存在意義を一層高めることが要請されているからである。
 この整備事業に対しても当初は、考古、歴史関係者や多くの県民が一抹の不安とさまざまな危惧を感じていた。土木、観光サイド主体による史跡の名や場を借りたこの種の事業は、どうしても土木・観光施策優先になりがちで、史跡の歴史性が軽視され、史跡の保護という大事な点は二の次におかれがちだからである。史跡を利用した安易な事業は、史跡の固有の価値や歴史的意義を失い、結局のところ、大事な文化的遺産を自らの手で破壊することになってしまうからである。
 こうした懸念にもかかわらず、数年たった現在では、甲府城の整備事業は全国の史跡整備、復元の模範的事業と評価されはじめてきた。史跡保護の総元締めである文化庁も、その進め方に強い関心を寄せている。この甲府城の整備事業が多くの関係者の支持と一定の評価を得てきているのは、なぜだろうか。
 甲府城は、事業を進める前提として、山梨県埋蔵文化センターの八巻与志夫文化財主事らによる綿密な発掘調査が実施されている。十年の歳月をかけて甲府城の歴史解明にじっくりと取り組み、その成果をもとに、忠実に史跡の復元を行なおうとしているからである。甲府城跡発掘調査検討委員会という組織もあって、調査手法と復元方法に対して常に真剣な討議と検討も繰り返されている。整備事業に対するこうしたシステムがうまく機能し、理想に近いかたちで事業が推進されており、しかも事業者である土木部サイドの史跡に対する深い理解と協力もある。
 史跡に対して、開発か保存といった従来の対立した図式を乗り越えて、開発との調和を図りながら、さらに一歩進んでその固有価値をいかに高めるべきか、多くの人々や行政が歴史文化遺産に目を向けている今日だからこそ、甲府城の整備事業のあり方は全国に範を示すものとして、高い関心が寄せられてきているのである。

  ※「ザ・やまなし」 一九九四年八月号(発行 山梨日々新聞社、監修 山梨県)に掲載されたものである。